[No.200] 2009/09/28 (Mon) 14:39
母を偲ぶ
人は自分の死期が分かるのでしょうか・・・
六年前の9月始め、両親に会いに実家に行った時、
母が突然、『私は具合が悪くなったら〇〇先生の所に行くから、
皆には迷惑かけないからね・・・』と、言ったのです。
予想もしていなかった言葉に私は返事が出来ませんでした。
母は居なくなるつもりなのかと心の中で思いました。
息子が産まれてから毎年、孫のお誕生日と敬老の日をお祝いして、
両家の親達と会食をしていました
息子が京都に行ってからも、親達を招き毎年皆で楽しく会食をしました。
六年前、我が家に招待した時、母が突然倒れてしまいました。
私が119番に電話をしている時、母が何としても大丈夫だから断って欲しいと言うのです。
翌日から、母は腰が痛いと言って寝たきりになってしまいました。
そして実家で〇〇先生の往診して貰う毎日になりました。
三週間程床に伏して、ようやくお風呂にも入れる様になり、
いつもの元気な母に思えました。
それから二日後、突然吐血してしまいました。
〇〇先生の病院に緊急入院する事になったのです。
急いで病院に駆けつけた時、大丈夫だよ何でもないよと言わんばかりに、
恥ずかしそうにしていたのが印象に残っています。
その日の夕方、父と夕飯を食べて自宅に帰りました。
午後10時過ぎ、病院から急変したとの連絡が・・・
急いで父を迎えに行き病院へ向いました。
・・・病院の駐車場に着いた時、看護師さんから携帯に連絡が・・・
『間に合わなかったね・・・』 理解の出来ない言葉でした
母は生まれて初めての入院で、
検査もせず、辛い思いもせず逝ってしまいました。
呆気なく逝ってしまったけれどある意味母らしい、
逝き方だったのではないかと思っています。
死因は、胃癌ではないかと言う事でした。
母はこれまで、相当我慢していたのでしょうね・・・
母と最後に会話した言葉が、
『明日、病院に来る時にパジャマを買って来てね』でした。
その数時間後に逝ってしまいました
母は昔の女性、そのものの生き方でした。
我がままを言わず、旦那様にひたすら尽くし、
家族や子供達の為にだけに生きて来ました。
それまでも、決して具合が悪い姿をみせた事がありませんでした。
今思っても私は、母の女としての生き方が理想です。
いつも家に居て、家事をしたりお裁縫をしたり・・・
母は家に居ても、毎日着物を着ている人でした。
そんな母が理想だったから、私は和裁を勉強したのです。
私が妊娠中、卵巣のう腫の手術をした時、
そんな身体に産んでしまって、ごめんなさいねって言った。
子供の頃から私の具合が悪いと、
本当に心配そうに私を見つめていた事が忘れられません。
お母さんとは、最後まで喧嘩する事もなく仲良く出来て良かった
お母さん私は幸せです、産んでくれて、
幸せな人生を歩ませてくれて本当に有難う
母が亡くなって早六年経ちました。
昨日、母の七回忌法要を静かに親族だけでやりました



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六年前の9月始め、両親に会いに実家に行った時、
母が突然、『私は具合が悪くなったら〇〇先生の所に行くから、
皆には迷惑かけないからね・・・』と、言ったのです。
予想もしていなかった言葉に私は返事が出来ませんでした。
母は居なくなるつもりなのかと心の中で思いました。
息子が産まれてから毎年、孫のお誕生日と敬老の日をお祝いして、
両家の親達と会食をしていました

息子が京都に行ってからも、親達を招き毎年皆で楽しく会食をしました。
六年前、我が家に招待した時、母が突然倒れてしまいました。
私が119番に電話をしている時、母が何としても大丈夫だから断って欲しいと言うのです。
翌日から、母は腰が痛いと言って寝たきりになってしまいました。
そして実家で〇〇先生の往診して貰う毎日になりました。
三週間程床に伏して、ようやくお風呂にも入れる様になり、
いつもの元気な母に思えました。
それから二日後、突然吐血してしまいました。
〇〇先生の病院に緊急入院する事になったのです。
急いで病院に駆けつけた時、大丈夫だよ何でもないよと言わんばかりに、
恥ずかしそうにしていたのが印象に残っています。
その日の夕方、父と夕飯を食べて自宅に帰りました。
午後10時過ぎ、病院から急変したとの連絡が・・・
急いで父を迎えに行き病院へ向いました。
・・・病院の駐車場に着いた時、看護師さんから携帯に連絡が・・・
『間に合わなかったね・・・』 理解の出来ない言葉でした

母は生まれて初めての入院で、
検査もせず、辛い思いもせず逝ってしまいました。
呆気なく逝ってしまったけれどある意味母らしい、
逝き方だったのではないかと思っています。
死因は、胃癌ではないかと言う事でした。
母はこれまで、相当我慢していたのでしょうね・・・
母と最後に会話した言葉が、
『明日、病院に来る時にパジャマを買って来てね』でした。
その数時間後に逝ってしまいました

母は昔の女性、そのものの生き方でした。
我がままを言わず、旦那様にひたすら尽くし、
家族や子供達の為にだけに生きて来ました。
それまでも、決して具合が悪い姿をみせた事がありませんでした。
今思っても私は、母の女としての生き方が理想です。
いつも家に居て、家事をしたりお裁縫をしたり・・・
母は家に居ても、毎日着物を着ている人でした。
そんな母が理想だったから、私は和裁を勉強したのです。
私が妊娠中、卵巣のう腫の手術をした時、
そんな身体に産んでしまって、ごめんなさいねって言った。
子供の頃から私の具合が悪いと、
本当に心配そうに私を見つめていた事が忘れられません。
お母さんとは、最後まで喧嘩する事もなく仲良く出来て良かった

お母さん私は幸せです、産んでくれて、
幸せな人生を歩ませてくれて本当に有難う

母が亡くなって早六年経ちました。
昨日、母の七回忌法要を静かに親族だけでやりました






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コメント
No title
読んでいて つい自分の母親のことを思い出して涙がでてしまいました。亡くなって16年たちましたが 母とのいろいろなことが、今でも鮮やかに思い出されます。
純ちゃんへ
サラリーマン家庭でしたので、昼間はいつも、
和裁をしていました
今、思うとおとなしい人でしたね・・・
母に、お前は優しいねっていつも言って貰えて、嬉しかったです
又、主人にいっぱい色々な所に連れてって貰い、
思い出を父といつも茶のみ話にしていたそうです
No title
おひさです^^
穏やかなお母様ですね^^ミミさんも、とても穏やかで、優しい^^
お母様と、同じですね^^
じゅんさんへ
じゅんさんの、痛いの痛いの飛んで行け~
母の七回忌が終わったら、何だか父が弱々しくなってしまいました
No title
長患いさせると可哀想だし、
何がいいかはわかりませんね~
お母様はお父様を残されて気がかりもあったでしょうが、、
日常のご様子を読ませていただくと、
幸せな方だなーと思いました。
No title
自分が医師からはっきり癌と告知されるまで
母には黙っていたのですが、電話でちょっと話がある、と話しただけですぐ解ったらしいです。
母の感はすごい、と思いました。
その後もずっとかわいそうに、かわいそうにと
繰り返していたのを覚えています。
お互いに残された親を大事にしましょ
ささゆりさんへ
私も、サラリーマンの奥さんになって、内職をするのが夢だったんですよ(^^ゞ
母は毎日着物を着て、白い割烹着を着て、まるでサザエさん家のふねさんみたいでした(^^ゞ
父が、がんセンターに行ってから、とても落ち込んでしまいました。
これからの過ごし方を考えて居るようです
ヨッシーさんへ
私が癌告知された時には、母はもう既に居なかったのですが、
生きていたら娘の癌告知をどう受け止めたのでしょうね
父も高齢になって先の事が分かりませんが、
仲良く穏やかに接していきたいと思っています
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